言葉の重み
1 重たい言葉
西宮市長が辞任された記事を読んでいて、思うことがあったので。
西宮市長が読売新聞の記者に対して「殺すぞ」と発言したことについては、たとえ2人きりだとしても脇が甘かったな、と。決して擁護するわけではないのですが、昨今「殺すぞ」という言葉が軽易に使われてしまっている風潮があると思います。
「死ねばいいのに」も同様で、どちらも実は重たい言葉であるにもかかわらず、日常的に非常に「軽易」に使われてしまっています。
またある番組でも、ある地方のご老人が宴会ネタとして「殺すぞ」と笑いをとる風潮の話をされていました。地方によっては、年配の方も軽易に使う事があるようです。
TV番組でも、笑いのひとつとして使われる事を目にするようになりました。
これらの重たい言葉をコミュニケーションツールとして使用するには、どのような環境が必要なのでしょうか。
まずは、その言葉を使って相手が不快感を得ないことが前提であり、言葉を文面通りに受け取らない感覚が必要です。そして、周囲にもそれを受け止める感覚が必要になります。
しかし、これらの条件を成立させることは不可能です。お互いの関係、立場が永久に同じということはありえませんし、周りで聞いていた人の感覚まで知り得ることは不可能でしょう。
2 言葉は取り戻せない
私は、日本でも一番耳障りの悪い方言と思う地方の言葉を使っています。実際、関東で仕事をすると、言葉の汚さから苦い顔だけをされる事が多く、出来るだけ直そうとしました。
おかげで新幹線で名古屋をすぎたあたりで言葉のスイッチが切り替わり、標準語が話せます。
周りの人々はそのような言葉の環境で育ったので、他所の人が聞けば「!?」となるような会話も、普段通りに喋っていると認識してくれます。
ですが、最近流行り始めた「殺すぞ」や「死ねばいいのに」については、さすがに年配の方は眉をひそめる事が多いです。
先日、知人と街でばったり会いました。知人はお母さんと一緒でした。丁寧に挨拶をしたあと、知人は私をいじりはじめたので、いつもの調子で方言での「げんこつするぞ」の「くらわっそ」と言いました。ちょっと巻き舌で発音するのですが、これを発言した後にお母さんが苦い顔をしました。これに気づいた私は、なんかやらかした、と思ってそそくさと場を後にしました。
後日知人に、その時の事を聞いて見たところ、「自分の子どもに殺すぞなんて言われたら嫌やろ」と言われました。私ははっとして、「くらわっそ」が「殺すぞ」に聞こえてしまったのだ、と気づくと同時に、知人のことしか考えず、近くにいたお母さんの事を考えていなかったことに気づきました。
知人は理解してくれましたが、お母さんの嫌な気分は取り消す事ができません。
3 失言について
政治家の方にも、失言王と言われる方がおられます。あれほどの地位におられる方でも、失言はするのです。
なぜ失言をするのでしょうか。
だいたいの失言を見ていると、リップサービスや会話の掴み、話のオチのために、余計な一言を挟んでしまう傾向があるのではないかと思います。
前後の文脈を見たとしても、少し脱線した余計な一言が、失言となる事が多いのではないでしょうか。これも、周りは私の事を理解している、全てが支援者と安心しきった上でのリップサービスですから、口元が緩くなるのは仕方ないのかもしれません。
しかし、「全て」の人の感覚なんてわかるわけないんです。悪意をもって近づく人もいますし。
4 言葉は一方通行
言葉は道具ですので、使い方次第です。
ですが、一度自分から話してしまった(離してしまった)言葉は取り返すことができません。
離してしまった言葉は受け取った人のものなのです。受け取った言葉は、話した人のものではなく、受け取った人のものなのでどうしようと、どう考えようと勝手なのです。
だからこそ、言葉については、「口は災いのもと」と言うように、正確に誠意を込めて使わねばならないのです。
「殺すぞ」
「死ねばいいのに」
「くらわっそ」
ただこう書いてあるのを見ただけでも、不快な感じがしたなら、使うのを控えた方がいいと思います。基本的には相手を傷つけるための言葉なのですから。簡単に使ってしまいますが、簡単には取り戻せないものを失う事になる前に。
言葉は道具です。使い方を誤れば、人を傷つけることも殺すこともできてしまう道具です。ただそれに、ほとんどの人が気づいてないだけです。
ちょっと自分への戒めも含めて、振り返ってみました。私も言葉でたくさん失敗してきているので、今一度考えてみます。